6手塚くんは本当に少年Aになった。私を刺した後、自分から救急車に電話をし、傷害の現行犯で逮捕された。私は腰を手塚くんによって、剃刀で刺されたのだった。手塚くんが未成年だったことと、日頃から手首を切っていたこと、それに私が手塚くんをかばったことから手塚くんは軽罪で済んだと、手塚くんのお母さんとお父さんが泣きながら報告してきた。彼らは私に普通の人間が一生で言うくらいの分の謝罪の言葉を述べたと思う。 「いらっしゃい、手塚くん。そこにいるのはわかってるのよ」 店先に立っていた私は手塚くんに声をかけた。彼にはすでに手紙をもらって今日尋ねてくることを知っていた。 手塚くんはおずおずと店の看板の陰から出てきて私の前に姿を現した。一年半ぶりに見るからだろうか。少し背が伸びているような気がする。最後に会った時より短く髪を切っているせいか、手塚くんは男っぽくなっているような気がした。 「ーーーーお久しぶりです、先生」 手塚くんは上目づかいで私を見ながら言った。 「僕、僕、なんて言ったらいいかーーーー本当にごめんなさい!」 手塚くんはそう叫んでいきなりアスファルトの上に土下座した。通りを行く人たちが手塚くんに目をとめる。私は「何でもないんですよォ」とにこやかに笑いながら、手塚くんの肩に手を置いてささやいた。 「こんなところでそんなことをするのはやめて。ここは私の店の前なんだから」 手塚くんは私の言葉に打たれたかのようにあわてて腰を上げた。 「ご、ご、ごめんなさい! 僕ってあいかわらず気がきかなくてーーーー」 私は微笑んだ。もうすぐ二十歳になろうというのに、手塚くんはまるで変わっていない。これなら刺されたことも許されようというものだ。 「お店の中に入って。学校帰りの女の子のお客さんがくるまであと二時間くらいあるから」 私が手塚くんに微笑みながら言うと、手塚くんはこくんとうなずいて私の後をついてきた。 私は涼しい鐘音のするドアベルを鳴らしながら、アンティーク調の家具で統一された店内に手塚くんを案内した。店の奥にある机の前にふたついすを並べて、ひとつに自分が座りもうひとつを手塚くんに勧める。手塚くんはグスグス鼻を鳴らしながら、そのいすに座った。 私は席を立って、唇を噛みしめている手塚くんに御茶を煎れた。 「カモミールティーよ。飲むと落ち着くわ」 「せ、先生、ごめんなさい! 僕は……」 「その話題はひとまずやめましょう」 私は手塚くんの唇に人差し指を置いた。手塚くんは私のピンク色のマニキュアに彩られた爪を下目づかいで見た。このマニキュアは私が邪夢からもらったものだ。恋愛運を高めるのだという。手塚くんの目にはこのマニキュアはきれいに見えるだろうか。 私は手塚くんの唇から指を離して、自分の分のカモミールティーをすすった。「冷めちゃうわよ」と言うと、手塚くんもようやくカップに口をつけた。 「このお店、どう思う? 自分では結構気にいってるんだけど」 私が水を向けると、手塚くんは手の甲で涙をぬぐいながらあたりを見回す。オパールや猫目石などで作ったピアスやペンダントなどのアクセサリーが陳列棚に入れられているのを手塚くんは興味深そうに眼鏡の奥の目をすがめて見つめていた。 「とっても綺麗ですね」 噛みしめるように手塚くんは言った。 「そうでしょ。私も気に入ってるの」 私は自然と頬をゆるませながらうなずく。心なしか手塚くんがまぶしそうに私を見つめているように思えた。 「学校をやめてから、自分が何をしたかったのかを考えたの。それで私気づいたのよ。私はただ変わりたかったんだって」 私は胸元に手をあてながら言った。そこにはもうすでにピアスはない。穴だってもうふさがっている。 「ううん、変わりたいっていうより、あの場所から逃げ出したかったのね。教師を続けていくのもしんどかったし、生徒にいじめられるのもつらかった。二十九歳っていう自分の年齢も気になったし、あなたとの関係も曖昧で中途半端で、でも自分からあなたのもとを去っていくほどの気力もなかった。だって私、手塚くん以外に向き合って話すことのできる人間がいなかったんだもの」 私が手塚くんのことを「少年A」と呼ばず、「手塚くん」と呼んだ時、手塚くんが悲しそうに息をついたように見えたのは気のせいだろうか。 「だから私、自分を壊してやろうと思ったの。乳首にピアスなんて入れて、イカレた女だと自分のことを思いこんだら少しは強くなれるような気がした。そうしたら周りが私をバカにしなくなるような気がしたの」 「僕は先生をバカにしてなんかいませんでしたよ」 間髪入れず反論する手塚くんに私は悲しく笑いながら言った。 「でも一ノ瀬さんがいたでしょ」 「たしかにそうだけどーーーー」 手塚くんはしばらくの間うつむいてから顔を上げた。 「裁判所でも言いましたよね。僕、先生が学校でどんな目に遭ってるか知りたくて、バイト先の友達の知り合いだった一ノ瀬さんに先生のことを教えてって頼んだんです。そうしたら一ノ瀬さん、何を思ったか僕に交換条件で自分とつきあえって言い出して……そのうち一ノ瀬さんの言われるままに僕、おそろいのピアスも入れちゃいました……」 「でもあなたはそこでそれを断ることもできたでしょ?」 手塚くんは私の言葉にくじかれてうなだれた。私は冷静に手塚くんを観察する。手塚くんの両方の耳たぶにはすでにピアスはなかった。 「……本当のことを言うと、僕、一ノ瀬さんにあこがれてたのかもしれません」 苦さのする声で手塚くんは拳を握りしめながら言った。 「一ノ瀬さんって強そうで、僕と違って一生懸命現実に立ち向かってるって感じがしたんです。きっと僕みたいに言いたいことをためこんだあげく、手首を切ったりしないでたくましく生きてるんだろうなって……そんな一ノ瀬さんとつきあっていれば僕にも見えてくるものがあるような気がしたんです」 私は苦笑した。手塚くんが一ノ瀬に惹かれた理由は私と同じだったからだ。 「一ノ瀬さんもあなたにあこがれてたって言ってたわよ。裕福な家庭で大切に育てられて自分みたいな野良猫とはきっと違うだろうって」 私は一度だけ私の入院していた病院に見舞いに来た一ノ瀬のことを思い出しながら言った。あのクラスの教え子たちの中で私を見舞ったのは一ノ瀬ただひとりだった。白い病室の中で深紅のワンピースを戦闘服のごとく身にまとっていた一ノ瀬の姿は今でも私の記憶に鮮明だ。一ノ瀬は悪びれず「秀一のことで先生に話をつけに来た」と百円ケーキの箱を私の枕元に置きながら言った。 それから一ノ瀬は私に尋ねた。 ”秀一の手首、あれ何?” ”何って一ノ瀬さん、あなた私をからかってるんじゃないわよね? あれは手塚くんが自分で……” 私は一ノ瀬の驚愕した表情を見て、話すのをやめた。 ”一ノ瀬さん、あなたまさか手塚くんのリストカット知らなかったの?” 一ノ瀬は息を詰めて黙り込み、やがて笑い出した。 ”やっぱやーめた! あんなめんどくさいヤツ、先生にあげる” そう言って一ノ瀬は病室から去っていった。去り際に「先生、元気でね。お幸せに」と言った声は一ノ瀬にしてはやけに弱々しかった。 「どうして一ノ瀬さんが僕なんかに……わからない」 手塚くんはゆるく首を振った。 「人間なんてそんなものよ。みんな誰かにあこがれて、自分にはないものを求めるの。だから私もどこかの誰かにうらやましがられてるのかもしれない。人間の仲違いやいじめってこんな小さなところから生まれるものなのかもしれないわね」 手塚くんは私の言葉を噛みしめるように黙って聞いていた。それから私に尋ねてきた。 「先生、どうしてアクセサリーショップを始めたんですか?」 「私、小さなころからきらきら光るものを見るのが好きだったのよ。それで図書館に行って宝石のことを調べているうちに、パワーストーンをあしらった民族工芸品やアンティークのことを知ったの。それが本当に綺麗で、見てるといやなことも忘れられるような気がして、どんどん調べていったの。ただの現実逃避だったかもしれないけど、その逃避がこうやって現実に結びつくこともあるのよ」 私は満ち足りた気持ちで店内を見渡した。ワンフロアの小さな店だけれど、ここの主は私なのだ。仕入れや出店の仕方は邪夢に教わった。ほんの少しの黒字しか出ないけれど、自分が好きなことをして稼いだお金だからプライドが持てる。私はいつしか自分が強いか弱いかなんて考えない人間になっていた。 「ねえ、どうしてピアスみたいなアクセサリーがこの世にできたか知ってる?」 手塚くんは私の言葉にかぶりをふった。 私は先生風を吹かして説明する。手塚くんは私の教え子なんだからこれくらいいいだろう。 「それはね昔の人が自分の足りないところを貴金属でおぎなおうとしたんだって。昔から人間って、自分のどこかが欠けてるんだって悩んでいる存在だったみたいね」 「先生は……先生は今はどうなんですか?」 手塚くんは身を乗り出して私に尋ねた。すがるような目だった。私はまたカモミールティを一口すすりながら言う。 「そうね。今だって欠けてるかもしれないわ。一生埋まらない心の隙間だってあるかもしれない。でもそれはもうそんなに怖くなくなったの。人間ってそういう存在なのかもしれないって思えるようになったから。このお店にはいろんな人が来るわ。お金持ち風のご婦人もいるし、キャリアウーマン風の人もいる。中年のおじさまがくることだってめずらしくない。私が教師をやってたころなら問題児扱いしそうな派手な若い女の子たちだって来る。その人たちはみんな自分に合ったパワーストーンのついてるアクセサリーを探しに来るのよ。たかがこんな光る石を、ね」 私は机の上に置いてあった水晶を手塚くんにかざした。 「これってなにか科学的裏付けとかあるんですか?」 いかにも優等生らしく手塚くんが言う。私は首を横に振った。 「でもそれを一瞬でも信じて、その人が元気になれたら幸せじゃない? 松葉杖と同じで その石にその人がすがる必要がなくなったら捨ててくれてもいいんだし。私は人が何かにすがることがそんなに悪いことだとは思わない。その人が取り返しの付かない迷惑を他人にかけたりしなければ、ね」 取り返しのつかない迷惑。この言葉に手塚くんの目から新しい涙があふれ出た。私がしまった、と思った時はもう遅かった。手塚くんはふたたび店内で土下座して私に語りだしていた。 「先生……先生にあんなことしちゃって、ごめんなさい」 涙のにじんだ声で手塚くんは言った。体をぺしゃんこに折り曲げているせいか、手塚くんがひどく小さな男の子に見える。 「僕、先生にどうしても行ってほしくなかったんです。僕といっしょにいてほしかったんです。あの夜、僕は先生がとっても悩んでおられることに気づいてました。でもそれをなぐさめようとすればするほどどう振る舞っていいかわからなくて……それで結局、先生を引き留めようとしたらあんなことに……」 私はいすから降りてかがんで、ひれ伏している手塚くんの背中を優しく撫でる。 「手塚くん、バカね」 私の言葉に手塚くんの背中が大きく震えた。 「また剃刀を言葉の代わりに使ってしまったのね。今度は自分じゃなく、私に。でもそれってものすごくはた迷惑だけど進歩かもしれないわよ。手塚くんは自分を責めるだけじゃなくて、自分から他人に働きかけようとしたんだもの。まあ、ひとつ間違えたら私は死んでいたけれど」 「ごめんなさい!」 手塚くんはふたたび叫んだ。私は嘆息する。手塚くんを叱るのはこれくらいにしておいてあげよう。 「もう二度とあんなことしちゃだめよ。ちゃんと他人に自分の気持ちを伝えられるようになるまで、私のそばにいなさい。ねっ?」 「……いいんですか?」 私はうなずいた。両手を広げると手塚くんは私の胸の中に飛び込んでくる。私はその抱擁の強さに「痛い」と思わず言った。手塚くんは「ごめんなさい」と言いながら、あわてて私から体を離す。 「あなたももう子供じゃないんだから、少しは手加減してよね」 「は、はい、ごめんなさい……」 「よろしい」 私はうなずいた。それでも手塚くんはまだしょげている。私はふと思いついて、自分の着ていたシャツをしゃがんだまままくりあげる。手塚くんが驚きと謝罪のこもったまなざしを向けた。手塚くんが凝視しているのは、手塚くんが私を刺した跡だった。傷自体は浅いが、そこは赤黒く生々しさを誇っている。 「これ、なんだか分かるわよね?」 「僕が……先生につけた傷です」 そう、と私はうなずいた。ふたたび謝罪を口にしようとする手塚くんの手をその傷口に押し当てる。 「この傷を見るたびに、私はあなたを思い出すの。これはあなたの叫びの傷よ。これは私にとって、ピアッシングなんかよりずっと私を私らしくしてくれるものなの。だってあなたがそれだけ私を必要としてくれた証なんだものーーーーこれは私とあなたの絆」 手塚くんは泣いた。私は涙でぐしゃぐしゃになった手塚くんの顔から眼鏡をはずす。こうして手塚くんは障害物なしに私の胸に顔をうずめることができた。 私はふと気づいた。手塚くんの手首にまたもや包帯が巻かれていることを。 「……リストカット、まだしてるんだ」 「はい……なさけないですね、僕」 私は答えずに手塚くんをじっと見つめてながらその包帯をはずした。五年前と同じみみずがはい回ったような傷が現れ出る。手塚くんは私が何をしようとするのかいぶかしんでいるようだった。 私は手塚くんの傷口をがりりと咬んだ。 「痛い!」 手塚くんは悲鳴を上げる。 「お返しよ。私もこのくらい、ううん、もうちょっと痛かったんだから」 私はそうささやいて、手塚くんの血をすすった。鉄錆の味が口に広がる。手塚くんは痛そうに顔をしかめながらも、私を見つめ返してゆっくりと言った。 「僕のその傷に触れたのって、先生が初めて……」 「そう。私はあなたのこと、何でも受け止めてあげる。だから気が済むまで手首を切ったって恥ずかしがることはないのよ」 手塚くんは私の言葉にひどく嬉しそうに笑って私にくちづける。私は手塚くんの舌を強く吸った。私たちがくちづけを交わしている間に、手塚くんの手首の血は私のわき腹にある傷にぽたぽたと落ちる。私たちは手塚くんの流す血でできた赤い糸でつながっているように見えた。 「ねえ、先生」 くちづけを終えた手塚くんがお願い事をする子供のようにささやいた。 「なあに?」 「僕のこと……少年Aってまた呼んでくれませんか?」 私は手塚くんの言葉に目を丸くする。 「だってあなたもうすぐ二十歳だし、それに私にあんなことをしておいて少年Aだなんてシャレにならないわ」 「でも……そう呼んでほしいんです。二人でいる時だけでいいから」 手塚くんは目を伏せた。そういえば手塚くんは一言も自分の家庭のことについて話していなかったことに私は気づく。 手塚くんにとって、病院の跡継ぎである手塚秀一という本名はまだつらいのだろうか。 「いいわーーーーでも私はたまにあなたのことを本名で呼ぶつもり。あなたも時々私を先生、でなく本名の”佐々木さん”か”淳子”で呼んでちょうだい。その時間を少しずつ長くしていきましょう。いいわね、少年A?」 「はい、先生」 少年Aはにっこりと笑ってうなずいた。 私たちが互いを本名で呼び合いだした時、そこには何が起こっているだろう? 私たちは結ばれることができるのだろうか。たぶんできない、と私は思う。 でも少年Aが手首を切る限り、彼は私を必要としている。私は少年Aのパワーストーンになろう、と決心した。捨てられてもいい。それは彼が強くなれた証なのだから。 「好きです、先生。僕には先生しかいない」 少年Aが恥じらいながら私の背中に手を回す。 私の背中になまあたたかいものが垂れ落ちた。少年Aの血だ。私たちは悲しみがこぼれ落ちた赤い液体で結ばれている。どんなにそれが病んでいても、どんな未来が待ち受けていても、今の私たちの関係を断ち切ろうとするナイフはすべて無効になるだろう。絶対に安全な、切れない剃刀になってしまうのだ。 私は強く少年Aを抱き返し、ささやいた。 「だあいすきよ、少年A」 少年Aの手首から、またあたらしい血が流れ、私をあたたかくした。 終 |